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速度もサービスも隔世の感
~私の「一語白書」

2019年06月09日 11時05分
 そこへ、前方入口の扉が開いて、最初の車中販売の娘たちが、背を屈(かが)めて、入ってきた。(中略)
 「お茶は、いかがでございます。お茶のご用は……」
 “ちどり”の車販は、お茶からはじまる。やっと、座席にくつろいだお客が、日本人的嗜好(しこう)を発揮するとなると、まず、煎茶であろう。そこを狙って、駅売りのお茶と同じ容器を、同じ値段で販売する。
(獅子文六著『七時間半』より)

鉄道の車内販売。弁当や土産など扱う品目が縮小している

鉄道の車内販売。弁当や土産など扱う品目が縮小している

■向山文人(むこうやま・ふみと)氏 山梨日日新聞社編集局長や取締役論説委員長を歴任。5月から新聞150周年史事業統括。電子版「さんにちEye」で「私の『一語白書』」を連載しているほか、郷土力士・竜電の解説記事を書いている。趣味はギターの弾き語りで県内外のライブに出演。愛称は文(ぶん)さん。

■向山文人(むこうやま・ふみと)氏 山梨日日新聞社編集局長や取締役論説委員長を歴任。5月から新聞150周年史事業統括。電子版「さんにちEye」で「私の『一語白書』」を連載しているほか、郷土力士・竜電の解説記事を書いている。趣味はギターの弾き語りで県内外のライブに出演。愛称は文(ぶん)さん。

 冒頭に登場した小説は、東京から大阪まで、東海道本線特急で7時間半かかった頃の作品である。昼過ぎに東京を出発し、大阪に向かう車内。食堂車(ビュフェ)のコックやウエートレス、さらに車内販売の女性ら、いわゆる乗務員の人間模様を軸に、乗客とのやり取りを交えつつ、ユーモアとサスペンスタッチで描いた長編小説だ。
 著者の獅子文六(1893~1969年)は、大正時代に劇作家として出発し、戦争体験をはさんでユーモア小説や家族小説で筆を振るった作家である。『七時間半』は、東京―大阪間を3時間余りで結んだ新幹線開業の4年前に「週刊新潮」に連載された小説だ。
 「昭和三十年代のぶっちぎりのスピードで一気読みさせる、キュートで極上のラブコメディー」。4年前に復刊された文庫本での千野帽子さんの解説は、言い得て妙だ。
 食堂車や車内販売の情景をバックに繰り広げられる、乗務員や乗客が絡んだ恋愛の駆け引き。加えて熱海や名古屋、京都などの沿線の風景や時代の風俗、時の首相が乗り込んでの警備の様子などが、昭和の速度で展開される。
 私自身、先月下旬の三陸行の際に、東北新幹線の車内などで読みふけったが、動いている空間で読んでこそ、味わいが増した気がする。
 ただ現実に引き戻されると、食堂車はかなり昔に新幹線から姿を消し、今回乗った東北新幹線では弁当や飲み物などの車内販売もなかった。中央線特急では「7月からホットコーヒーの販売を取りやめます」とのアナウンスが聞かれた。
 電車のスピードアップと引き替えに消えていく車内サービス。乗務員の働き方改革や、フードロス減少といった時代の要請も背景にあるのだろう。『七時間半』に書かれたものが過去の遺物となる時代。「鉄ちゃん」のはしくれとして、鉄道旅行の情緒や味わいが薄れることに、隔世の感と寂しさを覚えてしまう。〈向山文人〉

※向山文人氏は5月に山梨日日新聞論説委員長を退任しましたが、「私の『一語白書』」の連載は続けます。