ホーム
最新
山梨
全国・海外
スポーツ
安心・安全情報
おくやみ・催し・人事
写真・動画
分かる・知る
ビジネス

「岸壁の母」 去来する韮崎

2017年08月19日 05時00分
「『岸壁の母』を祈るような気持ちで歌っています。戦争はもういやです」と語る二葉百合子さん=都内

「『岸壁の母』を祈るような気持ちで歌っています。戦争はもういやです」と語る二葉百合子さん=都内

 戦争体験を胸に、歌やテレビドラマに平和への祈りを込めている女性たちがいる。歌手で浪曲師の二葉百合子さん(86)とプロデューサーの石井ふく子さん(90)。二葉さんは韮崎への疎開経験を代表作ににじませ、石井さんは大月市出身の作家・山本周五郎との交流を通じ「家族」を描き続けている。歌とテレビドラマというなじみ深い世界から届けてきた思いを、2人に聞いた。〈沢登雄太〉

 「『岸壁の母』を歌う時は、韮崎のことを必ず思い出します」。歌手の二葉百合子さんは戦時中、神山村(現韮崎市神山町)に疎開していた。家族7人で肩を寄せ合った一間、地元青年団が企画した舞台で歌った浪曲に耳を傾けてくれた韮崎の人たち…。今でも胸に去来する韮崎の景色だという。
 父親が甲府市、母親は韮崎市出身。浪曲師の父に師事し、3歳で初舞台を踏んだ二葉さんは1941(昭和16)年12月8日に始まった太平洋戦争のさなか、父と地方巡業の日々を送った。戦況が厳しさを増し、母親ときょうだい(兄、姉、弟、妹)は故郷のつてをたどり韮崎へ。二葉さんと父親は浅草の事務所に身を置きながら舞台をこなし、韮崎から地方巡業へ電車で向かうこともあった。
 45(昭和20)年3月10日、状況が一変する。東京大空襲。浅草は焼け野原と化す。
 「私と父は生活する場所を失い、家族のいる韮崎へと向かいました。神山村には願成寺というお寺があって、養蚕業を営むお宅の一間を借りました」

●無残な東京の姿
 家族7人、肩を寄せ合い生きていかなければならない生活の始まり。「爆弾でやられてしまった東京の無残な姿は言葉では言い表せませんでした。しかし、韮崎の人たちの温かさに救われた。食糧難の時代、『おかいこさん』のさなぎをいって塩をふって食べさせてくれたことなどは本当に忘れられない。おいしかった。ありがたかった」
 14歳の時、韮崎で終戦を迎えた。「1年半ほど家族7人で韮崎で過ごしました。山梨県内でも歌い、声援や食料をいただきました。芸は身を助けるのだと、知りました」
 その後、家族と共に東京で生活。浪曲にせりふを取り入れる「歌謡浪曲」を父親と確立させていた二葉さんは72年、「岸壁の母」を発表する。声を震わせながら語るせりふ部分を核に「名曲」として受け入れられていった。
 (前奏を口ずさみながら)「『岸壁の母』はね、イントロの部分が流れ出すと、うまく歌ってやろうなんて気持ちとは無縁になり、『歌をつくる』感覚になるんです」。呼び起こされる戦争時代の無残な光景や、歌のモデルになった端野いせさんから聞いた話。同時に「韮崎で過ごした時間も流れだすんです」。
 二葉さんには父親が亡くなる際、忘れられない思い出がある。浪曲をたたき込まれた、厳しい父。「亡くなる時に人払いをして、枕元に呼んでこう言いました。『お前には苦労をかけたな。ごめん。でも、お前のおかげでいい人生が送れた』と」

●引退できない歌
 両親のおかげで韮崎へ疎開し、生き延びることができたと二葉さんは言う。「『暑くてえらかったね(大変だったね)』や『ぼこ(子ども)』『こまるじゃんけ』といった甲州弁が今でも孫たちと話していて出るのは、韮崎がずっと私の中にあるから。戦争体験者としては、ただただ、平和を祈るばかりです」
 2011年に芸能界を引退した二葉さんだが、14年、15年とテレビ局から依頼を受け特別に出演。最近も歌う機会があった。楽屋を訪れた歌手の南こうせつさんからは「戦争体験者の二葉さんだから表現できる世界。戦争を知らない世代にも伝わります」と声を掛けられたばかりだ。
 現代の雰囲気に平和への危機感が漂うのか、「岸壁の母」を歌ってほしいとの声は根強い。歌手が引退しても、引退できない歌があることを、二葉さんは感じている。=次回は20日に掲載します

 ふたば・ゆりこさん 1931年、東京・葛飾区生まれ。「岸壁の母」で76年に日本レコード大賞審査員会選奨を受賞、同年NHK紅白歌合戦に出場した。弟子に石川さゆりさん、坂本冬美さん、藤あや子さん、原田悠里さん、石原詢子さん、島津亜矢さんら多数。

  • 1
  • 2